同志のレポートから自分を探る(後編)
どうせまたすぐ、書かなくなるのだからいまのうちに。
昨日の続きを書いていこうと思う。
朝起きて読んでみれば、昨日の記事はやはり赤面モノであった。
本当に自分が書いたのか、信じたくなかった。
でも、これも自分。
夜にはセンチメンタルな気分になって、つらつらとあんな文章を書いてしまうのだ。
そしてそんなことを、僕を知る大多数の人は知らない。
妻も、家族も、親友も。
知っているのは尊敬する先生と2人の同志だけ。
いわゆる「普通でない人」。
普通でない人、とはいっても何も常識がないとかそういう類の人ではなくて、自分の内面に光を当てて成長しようとしている人。
こういう人たちに出会えたのは、本当に幸運だと思う。
人と人が出会う確率の話なんて今まで何度も聞いてきたけれど、それでもその奇跡に思いを馳せてしまう。
大学も卒業してしまってそれぞれが別の場所で生きているけれど、それでもこういう仲間がいるというのは心強い。
精神面の成長の話、さらにスピリチュアルな話なんてなかなか日常で出来る機会は訪れない。
仮にそんな機会があったとしても、どこか気恥ずかしさで逃げてしまうかもしれない。
だからこういう話が出来る相手がいるのは、ありがたい。
そんな貴重な同志のレポートから感じたことを書いていこうと思う。
次の段落は、エンデさんの「モモ」という作品からの引用だ。
道路掃除夫のベッポさんの仕事の流儀が語られている。
とても長く、終わりそうにないほど長い道路の掃除を請け負った時に、一度に道路全ての事を考えるのではなく「次のひと掃き」のことだけ考えて着実にこなしていく事で楽しく仕事を終わらせることが出来るそうだ。
これを読んでハッとさせられた。
いま個人事業主として働くことを選んだけれど、先の事ばかり考えて目の前の仕事にじっくり取り組めていたのか、反省する。
仕事全体の事ばかりで、目の前のタスクに集中出来ず、はかどらず、そして悩んでいたところだったのでこの話には感銘を受けた。
気持ちの先走りに結果がおいていかれていた。
これは今後の仕事の指針にしたいと思う。
ここで感じるのは、何かに悩んでいるとそのヒントが人やモノから与えられるということだ。
これまでの人生、幸運にも何かに悩んだ時には必ずヒントや助けがあったように思う。
周りの優しいひとたちからの直接の助けはもちろん、見守ってくれている存在が何かのカタチを借りて助けてくれているのだと感じている。
ありがたい。
あらためて、生かしていただいていると感じる。
最後は、あとがきとして同志自らの考えが綴られている。
さすがというか、やはり「普通ではない人」だと感じる。(褒め言葉だよ!)
自分の心を見つめ、成長させようとしているのを感じる。
そして最後の「本は広く世の中や未来へ向けて書かれているので、私個人へのお世辞も遠慮も一切含まれていない。」という一文。
本当にその通りだと思う。
どうしたって人が人にするアドバイスはお世辞も遠慮も含んでしまうだろうし、押しつけがましくあったりもするだろう。
だからこそ、対象を広く捉えた文章の方が刺さることも多々ある。
こうして能動的に生きるヒントを探す姿勢は自分も忘れないようにしたい。
見守ってくれている存在は、きっといつでもぼくらの助けを待っている。