久しぶりにブログを書こうとしたら、「この広告は、90日以上更新していないブログに表示しています。」と表示された。
さすがの三日坊主。
自分を探ると言っても、この三日坊主という特徴だけは探すまでもない。
でも、このブログは義務ではないからこれで良しとしよう。
自分が自分と向き合うための資産。
そしてこのブログを読んでくれた人の気持ちが少しでも軽くなればと思う。
あれ、読者の事を考えるのなら定期的に更新すべきでは…
とはいえ、だらだらと自分の思考を垂れ流すだけのブログだからしょうがない。
というか、こんなブログのしょうもない言い訳の記述の中に押しつけがましい「手助け」がにじみ出ている事に気付いた。
自分が誰かの助けになれるなんて傲慢だ。
勝手に「師」の一人としている忍野メメの言葉を借りるなら、「ひとは一人で勝手に助かるだけ。誰かが誰かを助けるなんてことはできない。」
この言葉は、ついつい「手助け」をしたくなる自分を戒めてくれる。
親からは昔から身内他人に関わらず人助けをする子だったと言われてきたけれど、それが全て良い方に作用したかというとそうではないだろう。
前述の忍野さんに言わせれば「本当に優しいよね。優しくていい人だねえ——優しくていい人だよ。胸がむかつくねえ、本当にもう。その優しさで一体どれほどの人を人間を傷つければ気が済むんだろうね?」ということだそうだ。
他人が介入できる問題と、その人自身が解決しないといけない問題を見極める目を持たなくてはいけないと思った。
でも愚かな僕はきっと、どうしようもない事でも目の前に困った人がいたら押しつけがましい「手助け」をしてしまうだろう。
びっくり。
全然ブログを書いてなかったくせに、書き始めると推敲もせずにだらだらと書いてしまった。
仮にも文章の校正の仕事もしているフリーランスとは思えない乱文乱筆である。
文というか、独り言に近い。
これを明日の自分が読んでどう思うだろうか。
深夜というのは恐ろしい。
思えば大学のレポート提出もこんな感じだった。
深夜テンションで一気に書き上げた妙な文章を、昼間のシラフの自分が後悔しながら発表する…
恐ろしい。
閑話休題
余談だけで1000字も費やしてしまいそうなのでそろそろ本題へ。
先日、大学の友人に大学生時代のレポートのデータを貰った。
その友人の書いた分と自分の書いた分。
関係ないけど、「自分」っていう漢字、自らを分けたのが己を指すなら、「自ら」は「みんな」?って急に思った。
…意味が分からん
さて、今回ブログを書こうと思ったのはその友人が書いたレポートを読みながら、今の自分がどう感じ、どう考えるのかを知りたかったからである。
長かったけど、ようやく本題。
(データをくれた友よ、名前は出さないからここで内容に触れるが許してほしい。ダメなら連絡くだされ。)
まず冒頭で、「自分の連想、経験、自分の感受性、それらすべてを投入して読む。だから本はいつも、ある意味では読者を映す鏡です。」という引用があった。
まさにその通りだと思う。
読書好きなら誰もが頷くだろう、多分。
本に綴られた文章が、自分の感情や理性と絡まり合い、知らなかった自分と出会える。
そしてこれは本でなくとも、例えばツイートやブログでもそうだと思う。
特に、他人の生の感情が乗った文章は、否応なしに自分の感情と混ざり合う。
その中で自分を知り、他人を知り、そして溶け合うような感覚を覚える。
だから、負の感情が強い時に負の感情がさらけ出された文章は読まないようにしている。
元々、人の感情を感じやすいタイプであるのもあって、なかなかプラスに戻せなくなってしまう。
昔聞いた話で、人は良いも悪いもすべての面を持っていて、どの面が強く出ているかを「個性」としているという話があったのを思い出す。
文章を鏡として見た時に、その文章を通して自分が持っていないと思いたい面を無理やり見せられることもある。
でも、だからこそ気持ちがフラットの時には興味のない文章でも読んでみたくなる。
「自分を知る」というのは、「自分にはどんな面もある」というのを認める作業でもあるのかもしれない。
ピンときたから太字にしてみちゃったりなんかして。
朝の自分が赤面して編集しようとするかもしれない。
でも残念、こういう面もあるという事を認める事が自分を知ることに繋がるのだ。
さて、自分への戒めをしておいたところで次の段落へ。
太宰治先生の「女生徒」からの引用。
友人は、「レポートを書いている時」と「それより昔」では、違う文章が気になったそうだ。
それぞれの文章について、見ていきたいと思う。
「なぜ私たちは、自分だけで満足し、自分だけを一生愛して行けないのだろう。」
という文章。
今の僕が考えるのは、「自分」はあくまでも自らを分けた一つでしかないから、自分だけで満足したりできないのだと思う。
じゃあ「自ら」ってなんだよって話ではあるけれど…なんだろう。
神的な存在か?
正体はともかく、「自ら」は命の水的なもので、僕らはいまそれを掬ったコップみたいなものと僕は考える。
コップたちは、この世界で学ぶべきことを学び、成長し、それを持ち帰る使命があるのではないだろうか。
そう考えると、分けられたコップ単体では経験値が足りず、そもそも分けた意味がないと思う。
わざわざひとつだったものを分けて存在しているからには、分けたからこそ出来る交流をして、経験を積まないといけない。
そういう理由から、「自分」だけで完結できないのではないかなあと思う。
次の文章
「いま、という瞬間は面白い。いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くへ飛び去って、あたらしい"いま"が来ている。」
おもしろい。
僕らは今にしか生きられないのに、その今を考えると次の瞬間には次の「今」が来ている。
30歳も過ぎると、時の経つ早さに恐れすら感じる。
内面の成長とは関係なく、身体の成長ばかりが先を行く。(というかもう老化か…?)
そういえば、「悩みは時間が解決してくれる」なんて言葉があるけど、本当にそうか?と思う。
その原因となる問題自体は消えていても、自分としてはやり残した宿題を提出しないままのどこか引っかかった気分は残っている。
やはり時間に任せず、その「今」に自分が解決すべきだったのかなと思う。
それこそ自分の成長に繋がったはずなのに。
結局どんな未来を想像しても、「今」の自分が続いていくだけ。
未来に成長した自分を想像するなら、「今」の自分が変わらないと。
ここまでとりつかれたようにノンストップで書いてきたけれど、急に言葉が出てこなくなった。
また書こう。
他人の書いた文章を鏡としてみるなら、自分の書いた文章も鏡だ。
自分で書いた文章を自分で読むのも、分けられた「自分」を、さらに分ける方法のひとつかもしれない。
だからこれは自分のための文章。
でも、誰かが勝手に助かってくれるといいな。
そんな感じ。