色々な自分について
自己紹介が苦手だ。
理由は簡単、自分が自分の事を良く分かっていないから。
それが必要な場であれば、形式的な自己紹介として名前や肩書、好きなものくらいを話して終わる。
これでは何も伝わらない。
こんな形ばかりの自己紹介をする度に我ながらこれで自分の何が伝わるのだろうとダメ出しをしたくなる。
結局のところ、自分のことなど何も伝わらない。
考えてみれば、他者からこれまで受けた自己紹介も同様だった。
そもそも、ある一人の人物をどういう人間かを分かるためには、数分の自己紹介では無理な話だ。
だから、世の中で行われている自己紹介は、ある意味ただの儀式であると思う。
人は人との関わりの中でどういう人間か定義されていく。と思う。
ここまで書いて、以前聞いたドーナツの穴の話を思い出す。
簡潔に言うと、ドーナツの穴はドーナツそのものがなければ存在し得ない、穴は穴そのものではなく周りによってのみ形作られている。だったような。
空虚な僕には実に親近感をもつ話だ。
自分自身は周りの人たちによって形作られている。
その人を知るには、その人の友達を見るのがよいというけれど、それもまた的を射ているのかも。
ただ、一概に僕の友達と言ってもみんなが全く同じ面を僕に見ているかというとそうではないと思う。
自分自身は人によって態度を変えるような人になりたくないと思っているけれど、きっと見る人によって見えている面は違うのだろう。
それは逆を考えれば納得できる。
ある人物についての認識が自分と他人で違うことは多々あるからだ。
人が他者のどの部分を強く見出すのか、傾向を知りたいと思った。
自分の場合を考えてみると、自分に似ている面を探しがちだと思う。
でもきっと、自分とは違う面を見出す人もいるだろうし、人として良い面を見出す人もいるだろう。
と、考えているとあるセリフを思い出した。
思い出したと言ってもうろ覚えのため以下引用
”好きな奴がお前のことを好きになってくれるとは限らないのと同様ーー嫌いな奴がお前のことを嫌いになってくれるとは限らないんだよ。そして嫌われてくれるとさえ限らないんだ。
嫌なだけの人間はいない、悪いだけの人間はいない、どの方向から見ても同じ性格の奴はいないし、どの時点でも同じ性格の奴もいない。
お前は走るのが得意なようだが、しかし常に走りはしないだろう?歩きもすれば、寝もするだろう。同じことだ。俺は金が大好きだが、その金を使いもする。
特に思い入れがなくっても、誰かに親切にすることもあるさ”
改めて読んで、西尾維新の考えるセリフには引力があると感じる。
そういえば、先生の授業の中で「人間は○○だ」と思いつく言葉をいくつか書いた後で、「人間」の部分を「私」に変える作業があったのを思い出す。
どんな面も自分にはあるということを認識させられた回だった。
正しく優しくありたいと未だに思う僕にとっては、自分の悪い面が存在することを認めたくなかったけど、それもどうしても自分であるということを受け容れている。
というか、所詮自分は聖人君子ではないだろうと身の丈を知ったからだ。
自分が自分のやりたいように、自分の身の丈の正義を実行したいと思う。
それを誰かがみて僕をどういう人間か評価しても、それは自分の関知する事ではないのだ。
自己紹介を自分をわかってもらう機会と考えていたことが間違いだった。
自己紹介はあくまで自分を知ってもらうための準備運動に過ぎない。
どんな言葉を並べたとて、他者が自分をどういう人間と思うかはコントロールできないからだ。
さてさて、文章が迷走してきた感があるのでここでひとまず区切ろうと思う。
はじまりは自分がどういうやつか考えようと思って書き始めたはずなのに。
それでも、このブログは推敲無しの一発書きをモットーにしているのでこれはこれで良い事にしよう。
こうして頭の中で考えていることをそのまま文章として残すことで、少し先の僕が僕をどういうやつか判断する材料にしてもらえればよい。